ゼルダ・フィッツジェラルドの波乱万丈な人生
アメリカの作家スコット・フィッツジェラルドの夫人である。
彼女はいわゆる最初の「イット・ガール(It Girl)」であったと言われている。
テーブルの上で踊ったり、パーティー会場で服を脱ぎだしたり、友人の時計をふざけてスープに入れて茹でてみたり・・・とまさに「アメリカ最初のフラッパー(おてんば娘)」として当時の富裕層の間で話題の美女だった。
ゼルダ・セイヤーは10代でタバコを吸い始め、授業をサボり、男友達といちゃつく少女だった。
「劣等感、恥ずかしさ、疑問 ― そんなものはこれっぽっちも感じなかったし、道徳上のルールなんかもなかったわ」。
海岸では肌色のワンピースの水着を着て、まるで全裸で泳いでいるように見せるのをしばしば目撃された。
また学校のダンスパーティーでは、クリスマスツリーに使われるヤドリギをスカートの後ろに付けていた。
まるで男子生徒たち対して、向けてここにキスしなさい、と言わんばかりであった。
高校時代の日記に彼女はこう書き記している。
「男の子たちのバイクに乗って、ガムを噛み、外でタバコを吸い、チークダンスを踊り、そしてコーンウィスキーを飲んでいた」
「髪の毛をボブカットにして、深夜に家を抜け出し、月夜の中を男子生徒たちといっしょに泳ぎに行き、翌朝は何もなかったかのように朝食のテーブルに着く、なんてことをした女の子は私が初めてだった」。
ゼルダは6人の子供の末っ子で、裕福な家庭に育った娘だった。
スコット・フィッツジェラルドは第一次世界大戦当時、ゼルダの住んでいた近くで陸軍大尉として駐屯していた。
世界大戦が終わった1918年、二人は初めて出会った。
まもなく二人はアルコール、セックス、そして上流階級の豪華絢爛たる友人に囲まれた生活を送り始めた。
スコットの最初の小説『楽園のこちら側』が出版された1920年、ゼルダはスコットのプロポーズを受け入れ、二人は8月に結婚した。
当時スコット23歳、ゼルダ19歳。
新婚の二人はまたたくまにセレブカップルとなった。
ゼルダの思い切りのいいボブカット、ショートスカート、そして酔っ払うまで飲み続ける酒好きなどは、当時流行となった「フラッパー」の象徴となった。
彼女は高級ホテルのロビーで側転をしたり、手すりの上を滑り降りたり、浴室での性行為について自慢話をしていた、と伝えられている。
スコットとゼルダは、ある高級ホテルの回転ドアをクスクス笑いながら30分間にわたり廻り続けたため、結局そのホテルから追い出された、という逸話も残っている。
スコットは5ドル札でタバコに火をつけ、ゼルダはブランド服に多額のお金をつぎ込んでいた。
パーティーでは飲み物に密輸されたジンを注いで飲み、またあるパーティーではゼルダが突然服を脱ぎ出して、しばらく夫と二人だけの時間を過ごしたいわ、などといいだした。
別の夜には、ディナーに招待してくれた友人へのお礼として、その場で黒のパンティを脱ぎ、テーブル越しにその友人へ投げつけたことがあったという。
スコットもまたひどい振る舞いをしたことがあった。
劇場でほかの観客といっしょにいた彼は、服を脱いでひざまずき、ヒステリーのように笑い出したことがあったらしい。
ジャーナリストのドロシー・パーカーが二人に初めて会ったとき、二人はどうしようもなく酔っ払っていて、マンハッタンの交通渋滞にはまったタクシーの屋根の上に座り込んでしまったという。
1921年、娘のフランシス・フィッツジェラルドが誕生したあと、スコットはこういった。
「私たちはアメリカで最もうらやましがられる夫婦だ」。
しかし二人の野心の衝突が、結婚生活を最終的に終わらせてしまうことになった。
スコットはゼルダの日記の一部を自分の小説に盗用したため、ゼルダは憤慨した。
彼女は単なる有名人の妻ということだけでは満足できなかったのだ。
自分自身でも小説を書き始め、100を超える絵を描き、バレリーナとしても優秀だった。
ゼルダはスコットの小説の登場人物の多くにインスピレーションを与えている。
『グレート・ギャッツビー』のデイジー・ブキャナンもその一人だ。
南部の州出身で、自我が強く、富と嫉妬に満ちた結婚生活にはまり込んだ女性キャラクターである。
またゼルダは夫の成功に単に嫉妬しただけではなかった。
スコットが有名なダンサーとしゃべっているのを目撃したとき、彼女は階段から飛び降りてきたことがあったという。
1927年、スコットは17歳の女優と不倫関係に陥った。
また同時代の作家であるアーネスト・ヘミングウェイとゲイの関係にあったとも言われている。
一方、スコットが後にアメリカ文学の最高傑作と評される『グレート・ギャッツビー』を執筆している最中、ゼルダは女友達とレズビアンの関係になり、またフランス人兵士と不倫関係になったとも言われている。
スコットが問い詰めると、ゼルダはこの愛人と一緒に逃げ出したいのだと言い返した。
彼はゼルダの離婚申し出を拒否し、なんと代わりに彼女が心変わりするまでゼルダを閉じ込めてしまうことにしたのだ。
「私は1か月間ヴィラの中に閉じ込められた」とゼルダは書き記している。
幽閉されている間、ゼルダは睡眠薬を飲んで自殺を試みたこともある。
娘のフランシスはまだ2歳だった。
当然のことながら、二人はお手伝いさんに育児のすべてを任せてしまうひどい両親となった。
スコットの日記には「お手伝いさんは誤って娘をビデに入浴させてしまった」とか「娘はレモネードと勘違いしてジンフィズを飲んでしまった」などという記述が残されている。
ゼルダはかつて言ったことを考えれば、こんなことになるのも無理はない。
「私が望むのは常に若く、何の責任も負わずにい続けること。そして私の人生は私自身が生きて幸せになり、自分が満足できる死に方をすることよ」。
しかし、彼女は満足できる死に方をできなかった。
1930年、30歳だったゼルダは神経衰弱に陥り、統合失調症と診断され、その後一年半にわたって複数の精神病院に入退院を繰り返した。
一方スコットはアルコール依存症と戦い続け、またブロードウェイで公演された戯曲が失敗したことから流行作家のステイタスを失った。
結局、雑誌「Esquire」で自分の没落について告白するような文章を載せるところまで落ちぶれてしまった。
1940年12月、スコットは貧困の中44歳で亡くなった。
カリフォルニアで心臓発作を患ったのが原因であった。
3年後、ゼルダはノースカロライナ州にあるハイランド・ホスピタルに入院し、電気ショック療法を受け始めた。
1948年、この病院は火災に見舞われ、9人の女性患者が死亡した。
ゼルダはそのうちの一人だった。
享年47歳。
彼女は夫スコットが眠る墓にいっしょに眠っている。
その墓石には、『グレート・ギャッツビー』から以下の引用が彫りこまれている。
「こうしてぼくたちは、絶えず過去へ過去へと運び去られながらも、流れにさからう舟のように、力のかぎり漕ぎ進んでゆく。」