グーグル・ドゥードルに登場したヴィクトル・ユーゴーってどんな人?
6月30日のグーグル・ドゥードルに登場したヴィクトル・ユーゴーは『レ・ミゼラブル』や『ノートルダム・ド・パリ』の作者として知られているフランスの作家である。
ロマン主義の詩人であり、また劇作家でもあった。
フランス国外では、ユーゴ―は小説の作家として知られ、その作品は映画、アニメ、ミュージカルと様々な形で再現されている。
一方フランス本国では『静観詩集』や『諸世紀の伝説』などの詩集を残した詩人として語られる場合が多い。
また、生涯にわたって4,000を超える絵画も残している。
《ユーゴーの生涯》
彼が生まれたころのフランスは政治的に不安定な時代であった。
ユーゴーの父親はフランス皇帝となったナポレオンの率いる軍隊の中で、高い地位にいた軍人であった。
しかしスペインでの戦闘で失敗したため、彼の名前は凱旋門に記されてはない。
ユーゴーの幼少年時代、一家はヨーロッパ中を移動し続けており、この移動期間がユーゴーの知的成長に大きく影響したと言われている。
幼いころ、両親は離婚。
移動の続く生活が子供たちの成長に与える影響を心配した母親は、結局子供を連れてパリに戻ることになった。
ユーゴーの生活と学習は、この母親の王権主義的な考え方に大きく影響を受けた。
ユーゴーは幼馴染の恋人アデル・フシェと密かに婚約していた。
「密かに」というのは、彼の母親が二人の関係を認めなかったためである。
二人の結婚は母親の死により、ようやく実現した。
妻とのあいだに5人の子供たちがいたが、一人は生後すぐ亡くなり、最年長の娘は19歳で死去している。
この娘の死を知ったユーゴーは、その衝撃と悲しみを書き記した「ヴェルキエにて」という詩を残した。
《政治家としてのユーゴー》
若いころのユーゴーは母親の影響を受け、王権派であった。
しかし彼の政治思想は変化し、共和派となる。
1840年代から80年代にかけて、ユーゴーはパリとボルドーで国民議会の議員として活躍した。
彼は社会情勢に対してきわめて高い関心を持っていて、死刑廃止を訴えていたことでも知られている。
1851年、ナポレオン3世により国民会議が解散に追い込まれると、その独裁体制を批判していたユーゴーは亡命を余儀なくされ、ブリュッセルやチャネル諸島で暮らすことになる。
それから19年の亡命生活を経た1870年、ナポレオン3世が権力から追い出されたことでようやくユーゴーはフランスに戻ることができた。
《ユーゴーの2大作品》
ユーゴーの作品は、アルベール・カミュ、チャールズ・ディケンズ、フョードル・ドストエフスキーなど後世の文学者たちにも影響を与えた。
『ノートルダム・ド・パリ』は1831年に出版され、ヨーロッパ中で多くの言語に翻訳された。
ユーゴーは、この小説を読んだ人たちがパリのノートルダム寺院を訪れることで、パリ市にこのルネサンス前に建設されたこの美しい寺院を保存させようとしたのである。
『レ・ミゼラブル』は長期間にわたって執筆され、社会の不正とみじめな生活について書き記すことを目的に書かれた作品である。
結局完成までに17年かかり、ユーゴー自身も「自分の仕事の頂点だ」と語っている。
《ユーゴーに対する評価》
彼の最初の詩は若干二十歳の時に出版されている。
詩は発表されるとすぐに高く評価され、その若さでルイ17世から年金を受給する権利が与えられた。
1885年、ユーゴは肺炎で亡くなった。
享年83歳。
フランス政府による国葬が営まれ、200万を超える人々が凱旋門からパンテオンへ向けて列をなした。
フランスでの彼に対する高い評価はさまざまな形で残されており、とくに遺体がパリのパンテオンに埋葬されているのはよく知られている。
パンテオンにはヴォルテール、ルイ・ブライユ、ジャン・モネ、ピエール&マリー・キュリー夫妻など、高名な芸術家や著名人たちが埋葬されており、ユーゴーも彼らと並ぶ人物として扱われていることがわかる。
またユーロ導入前には、ユーゴーの肖像が5フラン紙幣に印刷されていた。