トーマス・マンが1930年代にわずか3回の夏を過ごした別荘の話
1929年の夏、トーマス・マンはバルト海に面するクルシュー砂州の田舎風景に心を奪われた。
そしてこの地にある漁村「ニダ」に、マンは別荘を建設することになる。
しかしマンとその家族がこの別荘で過ごした夏は3回だけであった。
ナチによる迫害のために、亡命者としての生活を余儀なくされたのである。
トーマス・マンと夫人のカティアは、当時の東プロイセンにあったケーニヒスベルク(現カリーニングラード)への旅行の途中で偶然この村の様子を目にし、すっかり気に入ってしまった。
マン家の別荘は現地の建築家によって漁業小屋のスタイルにデザインされ、1年後に完成した。
1930年7月16日、マン一家はこのシンプルで居心地のよい家で夏の時間を楽しみ始める。
建築費用には、当時すでに『ブッデンブローク家の人々』によって世界的名声を獲得していたマンが1929年に受賞したノーベル文学賞の賞金が充てられた。
現在でも、この家は「Thomas Mann Museum」として一般観光客に開かれている。
今でも夏になると、とくにドイツからの数多くの観光客がこの地にあるトーマス・マンの家を訪れており、年間入場者数は約5万人になるという。
ソヴィエト時代の戦争や改造などによる損害は修復されており、20年ほど前に行われた改修の後も無事に保護され続け、今でも昔の美しさを維持している。
だが、昔使われていた家具類は置かれていない。
第二次世界大戦後、すべて没収されたからだ。
しかし写真や新聞の切り抜き、常設展のディスプレイなどが、マンのニダでの生活と活動内容の様子を伝えてくれる。
1階には暖炉のあるリビングルームがあり、そのバルコニーからはクルシュー潟を一望できる。
その上にはマンの書斎が保存されている。
ここからの眺望をマンは「イタリア風の眺め」と呼んでいた。
現在は砂丘の上に背の高い松林があるため、この眺めはほとんど楽しむことはできない。
休暇中でも仕事熱心だったマンは毎日の厳格な日課を守っていたと言われており、家族はそれに合わせなくてはいけなかった。
この別荘で撮影されたマン一家の写真からもまた、休暇中の日課の様子が見えてくる。
彼自身は仕事に没頭し人前に出ることを避けていた一方、子供たちはバルト海の海岸で大いに楽しい時間を過ごしていた。
しかし、ニダがマン一家にとってトラブルのない夏の楽園であったのは、短い期間にすぎなかった。
当時ドイツで広がっていった政治の動向は、ほかの場所と同じく、この美しい漁村にも暗い影を落としてきたのである。
マンはケーニヒスベルクの反ナチ勢力に対する攻撃を非難し、またナチの台頭の危機について警告する論評を新聞紙上に発表した。
1932年、このニダの別荘にいたマンのもとに一つの小包が届く。
中には焼き焦がされた『ブッデンブローク家の人々』が入っていた。
1932年9月、マンはこの愛するニダを離れた。
そのとき彼は、この土地を二度と見ることがなくなるとは思ってもいなかったのである。
ヒトラーが政権を取った後、1933年にマン一家はドイツを離れ、さらにはドイツ国籍を奪われたためアメリカに亡命する。
結局、マンは生涯に二度とニダに戻ることはなかった。
彼の可愛がっていた孫であるフリードはこのことを、「難民、そして亡命者としての序章のようなものだった」と語っている。