イギリスの詩人・版画家 ウィリアム・ブレイクについて知りたい
ウィリアム・ブレイクは同時代の文学・美術家たちからは正気ではない人だと思われ、ほとんど見捨てられていた。
しかし空想的・幻想的な詩人であり版画家であるブレイクは、現在はイギリス文学・美術に最も貢献した人物の一人とみなされている。
ブレイクは1757年11月28日、ロンドンのソーホーに生まれた。ブレイクはその後生涯のほとんどをロンドンで暮らす。
父親は洋品店を営んでおり、母親とともに非国教徒であった。ブレイクは学校には短期間しか通っておらず、 他は自宅で母親から教育を受けたといわれている。
子供の頃から聖書に接しその影響を受けており、その後生涯にかけて深いところにその影響は残り続けた。聖書は後の作品にも大きな影響を与え続ける。
ブレイクは幼年時代から幻覚を見る癖があった。彼の友人でジャーナリストのヘンリー・クラブ・ロビンソンが、ブレイクはまだ4歳のときに神様の頭が窓に現れるのを見た、と書き残している。
さらに彼は預言者エゼキエルが木の下にいるのを見たと主張したり、天使たちで満ちあふれた一本の木の幻覚を見たとも述べている。こうしたブレイクの幻覚もまた、彼が後につくり出す絵画や文学に長く影響を与え続けた。
ブレイクが初めに志したのは詩ではなく、絵を描くことだった。
14歳の時、すでにドローイングを学校で学んでいたブレイクは彫刻家のジェイムズ・バーシアに弟子入りした。
7年間の徒弟期間を終えたのち、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ(王立芸術院)で勉強を始める。
しかし学長であったジョシュア・レイノルズ卿の美学の教えに疑問を唱えたと言われており、結局在学は短期間に終わった。
その短期間の在学中にも、ブレイクはジョン・フラクスマンやヘンリー・フューゼリーらといった、ブレイクに影響を与えた美術家たちと交友を深めている。
1784年、ブレイクは印刷屋を開業した。
しかし数年後には営業が傾き始め、その後亡くなるまでブレイクは版画やイラストを描くことで生活をやりくりし続けることになる。
妻キャサリンとは1782年に結婚した。
キャサリンは勤勉な妻として生涯寄り添い、ブレイクが今日最もよく知られているイラスト付き詩集の印刷を手伝った。
1789年、彼が最も優しさをこめて書いた詩集『無垢の歌』(Songs of Innocence)を出版した。
しかしこれに続いて出版された『経験の歌』(Songs of Experience)では、大人の世界の腐敗と抑圧を意味深い言葉で表現している。
彼が残した作品の多さは、彼の容赦ないエネルギーとパワーを表している。
最も難解な書き手として知られるブレイクのキャリアを簡単にまとめることは不可能だ。
彼は極端なものの集合体なのである。
ブレイクは文明を避けがたい混乱と矛盾とみなしていて、これは当時の政治的な騒動のありさまを映し出している。
彼の死後、現在になってようやく私たちは彼の作品を鑑賞し、その難解で隠喩の多い作品をひも解くことができるようになったのだ。