シャルル・ボードレール 没後150年 『悪の華』の詩人のスキャンダラスな人生

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もしシャルル・ボードレールがもしこの現代に生きていたら、彼はロックスターになっていただろう。ジャニス・ジョプリンジミ・ヘンドリックスなどと同じく苦しみの人生を送った天才であるボードレールは、彼の持つ創造の熱意によって身を滅ぼしてしまうはずだ。

 

実際、ボードレールはその通りの人物だった。自らダンディを自任し、髪の毛を緑色に染め、世間ではあごひげを生やすのが流行であった時代にひげをきれいに剃り上げ、相続した遺産の多くを繻子やビロード製の衣服に費やしてしまった。

 

 

 

ボードレールはいまから150年前に死去した。享年46歳。彼の書き記した詩の多くは、その後の文学作品に使われる言葉の中に残っている。

 

T.S.エリオットは、『悪の華』の最後の行を引用することで、ボードレールへ敬意を表した。アルチュール・ランボーボードレールを「詩人の王様、本物の神」と呼び、プルーストは彼を「19世紀最大の詩人」としている。そして現在でもバカロレア試験には彼の詩が定期的に引用されている。

 

今から160年前に出版された『悪の華』は発禁処分となり、ボードレールは「公序良俗に反する」として多額の罰金を科された。この判決は1949年になるまで覆されることはなかった。

 

悪の華』の執筆中の仮題は「レズビアン」だった。詩はセックスと死、ドラッグと絶望について語ったものである。中には吸血鬼とのセックスを描写している作品もあり、今でもそのいくつかは読者に衝撃を与えるだろう。

 

近しい友人でもあった画家のエドゥアール・マネと同じく、ボードレールもまた古典主義と「modernity(現代性)」との橋渡しを文学の世界でやり遂げた人物である。この「modernity」(フランス語で「modernité」)という言葉は彼が作ったといわれている。

 

また人の臓器のひとつである脾臓を表す英語の「spleen」をフランス語に持ち込み、「憂うつ」という意味で使い定着させたのも、やはりボードレールであった。当時のパリ知事であったジョルジュ・オスマンが行ったパリ大改造で、廃墟や建設現場を目撃したボードレールが自分の気持ちを表すために用いた言葉であるという。

 

 

 

現代のデジタル革命に困惑している中高年層とは異なり、ボードレールは当時の新聞や電気といった最先端のモノと共生することができる人だった。ボードレールは写真家たちを「失敗した絵描き」であると見下していたが、それでも写真家のナダールは彼の親友の一人であったという。

 

ボードレールは人の権利の中に「自己矛盾の権利」が含まれるべきだ、と冗談交じりに語っていた。若いころ、彼は「自分の心の中には二つの矛盾する感情がある ー 人生の恐怖と人生の恍惚だ」と書いている。

 

ボードレールは自分のポートレートのために10回以上も撮影にのぞんだ。そのおかげで彼は19世紀で最も写真に収められた文学者になった。

 

彼は写真を偶像崇拝と異教信仰の一形態であると言いながらも、名刺サイズの自分の写真を人に手渡したり、最愛の母親に写真に写るよう説得したりもしている。

 

ボードレールの人生は2人の女性に支配されてきた。彼の母親であるカロリーヌ・オーピックと、彼が「黒いビーナス」と呼んだハイチ出身の女優ジャンヌ・デュヴァルである。

 

ボードレールは6歳のときに父親を亡くしている。彼は母親が軍人のジャック・オーピックと結婚するまでの2年間を、母親と二人だけで幸せに過ごした。

 

ジャン=ポール・サルトルはかつて、ボードレールはその高尚な作品を創造するために自らの人生を破壊したのだ、と書いたことがある。ボードレールと同様に、サルトルの母も再婚している。サルトルはつねに「義父に対抗して」執筆活動をしてきたと言う。ボードレールは1848年の二月革命でライフルを手にバリケードに向かったとき、「オーピック軍曹(=母の再婚相手)に死を!」と叫んでいたと言われている。

 

21歳の時、彼は父親の遺産を相続した。その後の2年間、彼は贅沢な暮らしを続けた。その結果、彼は裁判所の指名した管理人による監視の下に置かれることになり、国からの手当てを受ける身分になってしまう。

 

 

 

その後、彼は死ぬまで母親、友人、出版社にお金を恵んでもらうという生活を余儀なくされるのである。彼はつねに借金取りから逃げる生活を続けていた。引っ越し続きだったボードレールのパリ市内の住所は、40か所に及ぶという。

 

ボードレールもデュヴァルも梅毒に感染し、アヘンチンキの中毒になっていた。二人の関係は離別を和解を何度も繰り返すものだったと言われている。

 

デュヴァルの死んだ日は知られていない。しかしボードレールが1866年にベルギーで激しい発作に襲われ倒れたときには、彼女はいっしょにはいなかったことは分かっている。

 

彼の体はマヒ状態におちいり、そのまま人生最後の年を迎えた。そして1867年8月31日、母の腕に抱かれて死亡した。

 

ボードレールの葬儀にはわずか20人しか参列しなかった。その死後彼の友人たちは、公証人であり裁判所に指名された管理人でもあった人物が、実はボードレールの資産を着服していたことを発見した。その総額は彼が負債を全額返済し、悠々と暮らすのに十分な額であったという。

 

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