トルストイの妻ソフィア 『戦争と平和』完成への貢献と幸福ではない結婚生活

 

 

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1862年、34歳のトルストイは18歳のソフィアと結婚した。ソフィアは医師の娘で、二人は知り合って数週間で結婚している。

 

同じ年、トルストイは後に『戦争と平和』として完成されることになる作品を書き始めた。

 

1865年に最初の草稿が完成。ほぼ同時に、トルストイは推敲を始めた。

 

書き直しに次ぐ書き直しのプロセスで、妻のソフィアはそれぞれのバージョンを手書きで清書するという役割を担っていた。

 

トルストイは原稿用紙の隅にまで細かい字で走り書きをしていたため、ソフィアは時には虫眼鏡を使って夫の文字を読みとり、それを丁寧に書きまとめた。

 

その後7年間にわたり、ソフィアは第8草稿までこの作業を繰り返した。一部のパートについては30回近く書き直したこともあったという。

 

その間、彼女は4人の子供を産み育てた母親として、またトルストイ家の邸宅やビジネスの管理を行うマネージャーとしての仕事も受け持っていた。

 

なお、二人の間には生涯にわたって13人の子供が生まれている。

 

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このような献身的な妻に支えられていたトルストイだが、二人の結婚生活は決して穏やかなものではなかった。

 

トルストイは後年、精神的なものへの関心を深めていくにつれて家族への関心を失っていった。

 

その結果、親としての家庭での役割みならず、トルストイの著作の管理などビジネス面もすべてソフィアに任せっきりにしてしまう。

 

あわせてトルストイ自身も気難し屋になっていったという。

 

1880年代になるとトルストイの弟子たちまでトルストイ家の敷地内に住み着くようになった。

 

富の公平な分配と人類の平等を説くトルストイは、自分の靴をつぎはぎして直し、農民たちの着る服を自分でも着るようになった。

 

そんな夫の様子に怒りがおさまらないソフィアは、著作の出版権を維持するための契約書に署名するよう夫に迫る。家計の破産を危惧してのことだった。

 

1910年、82歳のトルストイはその日常生活に嫌気がさし、ついに家出を決意。夜中に娘の一人を連れて、自分の妹が所有する小さな土地に移り住むために家を飛び出した。

 

彼の失踪は当時のメディアで大々的に取り上げられたらしい。

 

家出から数日後、トルストイは当時アスターポヴォと呼ばれていた小さな駅に現れる。その情報が知れ渡るとすぐに、撮影機材を備えたニュースのクルーや多くのやじ馬たち、そして妻のソフィアも訪れた。

 

トルストイはすでに健康状態が悪化していたが、家に戻ることは拒否し、肺炎を悪化させてしまう。

 

そして1910年11月20日、死去した。享年82歳。

 

 

 

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