詩人ジョン・キーツの生涯について知りたい
キーツは25歳という若さで亡くなった。
それにもかかわらず、彼はイギリスの最も偉大な詩人のひとりであり、ロマン主義の重要人物とみなされている。
若く、美しく、運命に翻弄された詩人の典型的な存在としてイギリス文学にその名を残しているのである。
ジョン・キーツは1795年10月31日、ロンドンに生まれた。
父親は馬屋の管理人として働いていたが、1804年に亡くなった。
母親はその後再婚したが、その彼女も1810年に死去した。
キーツはロンドンの北に位置するエンフィールドで16歳まで学校教育を受け、その後外科医の見習いとなる。
1814年に彼は最初の詩を書いている。
そして1816年、キーツは医業を捨てて詩人になることを決意。
翌1817年に最初の詩集を出版した。
1818年、キーツは結核の末期症状に苦しむ弟トムの看病にいそしんだ。
12月、トムが死去。
その後、キーツはロンドン市内のハムステッドにある友人チャールズ・ブラウンの家に移住した。
そこで家のお隣さんであった18歳の少女ファニー・ブローンと出会い、恋に落ちる。
これがキーツの最も創作意欲が旺盛な時期の始まりだった。
「The Eve of St Agnes」「La Belle Dame Sans Merci」「Ode to a Nightingale」「To Autumn」などの代表作がこのころたくさん書かれている。
とくに「Ode to a Nightingale」を含む5つのオードは、イギリス文学における短詩の最も優れたもののひとつとみなされている。
1819年9月以後もキーツは詩作を続けた。
しかし彼の経済状況はとても厳しくなっていた。
愛するファニー・ブローンと婚約はしたが、お金がないために結婚のめどは立たなかった。
7月、2冊目の詩集が出版されるが、その時点で病状はかなり悪化していた。
9月、キーツは友人のジョゼフ・セヴァーンとともにイタリアへ移る。
イタリアの温暖な気候がキーツの病状を回復してくれることを願っての療養だった。
しかしローマに到着したころには、キーツはベッドから出ることが出来ない状態にまで病状が悪化していた。
セヴァーンの献身的な看護もむなしく、1821年2月23日、死去した。