フローベール『ボヴァリー夫人』 "幻の英訳" とは?
『ボヴァリー夫人』は19世紀に書かれた小説であるが、現代のクリエーターたちにも大きな影響を与え続けている。ある批評家は、満たされずにいつも何かを追い求めているキャラクター、エンマ・ボヴァリーを「デスパレートな妻たち」の元祖であると評している。
『ボヴァリー夫人』を書いている最中のフローベールは一日12時間を執筆にあて、文体のリズムを確認するために文章を大声て読み上げることもあったという。
一日あたりの時間のみならず、完成までにかかった期間も長かった。1ページ分を書き上げるのに1週間かけたり、90ページを書き上げるのに1年間かかったこともあった。
その一方で、フローベールは『聖アントワーヌの誘惑』の第一稿500ページについては、わずか18か月で書き上げてしまった。 これはフローベールがその生涯をかけて構想を練っていた小説で、1874年に出版されている。
しかしこの第一稿は、友人のルイ・ブイエに「そんなもの燃やしてしまえ」と言われるほどあまりに凝りすぎた書き方になっていた。
姪の家庭教師ジュリエット・ハーバート
『ボヴァリー夫人』の最初の英訳は、「ジュリエット・ハーバート」という人物による。
ハーバートは1856年から57年にかけて、フローベールの姪カロリーヌの家庭教師を務めた人物である。このハーバートという女性とフローベールとがやり取りした手紙は現存せず、彼女についてはほとんど知られていない。
彼女はフローベールの愛人であったという説もあり、姪のカロリーヌまたはフローベール本人がハーバートとの手紙を焼いてしまったとも考えられている。
一方でハーバートとフローベルは少なくとも友人同士であり、ハーバートがフローベールに英語のレッスンをしていたとも言われている。
二人はバイロンの詩「シヨンの囚人」をフランス語に訳しており、この流れから『ボヴァリー夫人』の英訳という計画に至ったとみられている。
フローベールはハーバートによる英訳を高く評価していた。 1857年5月付のミシェル・レヴィ(『ボヴァリー夫人』を出版したパリの出版業者)宛ての手紙で、「私を十分に満足させてくれる英訳が、私の目の前で作られているところだ。もし英訳がイギリスで出版されることがあるのなら、私はほかでもないこの英訳が出版されてほしい」と書き送っている。
その後もフローベールははバートの英訳を「傑作だ」と評していた。
"幻" の英訳と出版された英訳
こうして原作者の満足する英訳が、原作者の目の前で完成したが、これが出版されることはなかった。
上記の出版業者レヴィがイギリスの出版社との交渉に失敗したが、もしくは交渉をしなかった、と考えられている。
結局、ハーバートの英訳は1980年に『フローベールとイギリス人家庭教師』(Hermia Oliver著)と題された本が出版されるまで、忘れられたままであった。
今日に至るまでハーバートの英訳原稿はおろか、彼女の写真すら発見されていない。
なお、イギリスで『ボヴァリー夫人』の英訳が初めて出版されたのは1886年だった。
この英訳版はその前年の1885年、ロンドンの出版業者「Henry Vizetelly」がエレノア・マルクスに依頼して完成したものであった。
(10 Surprising Facts About Madame Bovary | Mental Floss)