シモーヌ・ヴェイユ生誕110周年 「行動の哲学者」素顔の一端を知る

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シモーヌ・ヴェイユは1909年2月3日に生まれた。

 

ヴェイユの仕事は学校の教師であったが、この職業は断続的に続けられた。健康問題や政治活動への参加など、中断の理由はさまざまだった。

 

ヴェイユグランゼコールのひとつである「高等師範学校」を卒業した最初の女性の一人であった。作家ロマン・ロラン社会学者エミール・デュルケム、哲学者アンリ・ベルグソンやミッシェル・フーコーなど、20世紀を代表する知識人たちの出身校である。

 

しかしヴェイユは在学中、この一流学校の旧式スタイルを批判する数多くのデモ活動や抗議運動に参加していた。彼女は行動の人であった。

 

「砂糖」拒否から始まった

第一次世界大戦中、まだ5歳だったヴェイユは、砂糖を口にしないという行動に出た。これは戦地にいる兵士たちは砂糖を自由に手に入れられない、ということを知らされたことがきっかけだった。このスタイルは後の人生に至るまでずっと続けられ、兵士たちに与えられる分量以上の食べ物を摂ることを拒み続けたと言われている。

 

ヴェイユはその著作の中で労働者階級について言及し続け、彼らが中産階級や上流階級の人たちが経験しないような環境で働いていることを指摘していた。これは単なる言論活動にとどまらなかった。ヴェイユは自分自身で労働者階級の人たちのなかに混ざり、工場労働を経験したのである。

 

1934年、彼女は12か月にわたる休職期間を得てルノーの自動車工場に就職し、そこで1935年の夏まで実際に労務に従事した。産業用溶解炉を操業中にひどい火傷を負ったこともあった。当時は失業率の高い時代であり、そのためにすべての労働者たちが上司の気分・気まぐれの犠牲になっていることをヴェイユは見抜いた。同時に、最も犠牲になっているのが女性たちであることも指摘していた。

 

1936年、ヴェイユはそれまで勤めていた教師の職を辞し、無政府主義組織の一員として内戦中のスペインに赴いた。彼女はこう記している:

 

1936年7月、私はパリにいました。私は戦争が好きではありません。しかし、戦争の外で仕事をしているということは、戦争そのものよりもはるかに恐ろしいということを私は発見しました。そんなことはないと信じようともしてみましたが、やはりそうであると理解したのです。そのとき、私は戦争への参加を拒むことは倫理的にできないと考えました。つまり、自分では何もやらずに、その一方で毎日、毎時間、ある人たちの勝利やほかの人たちの敗北を願うなどということはできないと思うのです。私は、軍に入隊するためにパリを離れてバルセロナ行きの電車に乗るべきだ、と自分に言い聞かせました。1936年4月の始めのことでした。

 

同時代のヴェイユ 

シモーヌ・ド・ボーヴォワールヴェイユと会ったときのことを回想している。二人とも大学在学中のことだった。ヴェイユボーヴォワールのいるソルボンヌ大学を訪れ、そこで二人は革命こそが空腹に苦しむ多くの人たちを救うものである、という議論をした。

 

そこでボーヴォワールは、人々が求めているのは革命ではなく自分たちの存在への意味付けである、という意見を述べた。するとヴェイユは、あなたは空腹になったことがないのでしょう、とボーヴォワールに向かってさらりと反論した、と言われている。その一方で、当時中国で起こったばかりの大地震による惨状について、ヴェイユが人目をはばからずに涙を流したことがあったとボーヴォワールは回想している。

 

ヴェイユボーヴォワールを始め、サルトルカミュらと同時代の人物であると考えることが出来るが、彼らほど名の知られた人物ではない。残された写真も数少なく、静かな微笑みを見せた地味な印象を与えるものが多い。

 

しかしアルベール・カミュヴェイユを「現代における唯一の偉大な精神」と呼んでいた。

 

シモーヌ・ヴェイユは1943年8月、滞在先のイギリスで死去した。34歳の若さだった。 

 

 

 

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