ドストエフスキーをよく知るために もう少し深くて詳しい3つの話

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ドストエフスキーについてはすでに「ドストエフスキーってこんな人 あらためて学ぶ10の予備知識」で触れているが、こちらの記事「GREAT EUROPEAN LIVES: Crime and Punishment author Fyodor Dostoevsky」では以下についてさらに詳しい話を読むことが出来る。

  • 処刑直前に恩赦になった経験の詳細
  • 短時間で書き上げた傑作の数々
  • 当時は珍しい「貴族ではない作家」

 

 

 

処刑直前に恩赦になった経験の詳細

当時28歳だったフョードル・ドストエフスキーサンクトペテルブルクの「ペトロパヴロフスク要塞」に収監された。収容は8か月間に及んだ。

 

ドストエフスキー社会主義者ペトラシェフスキーが主催していた空想社会主義の勉強サークルのメンバーだった。

 

1825年に「デカブリストの乱」が起って以来ロシアには革命運動が広がりを見せており、皇帝政府は神経を苛立たせていた。これを食い止めようと躍起になっていた政府はペトラシェフスキーの勉強サークルに目くじらを立て、そのメンバーを逮捕監禁したのである。

 

1849年12月22日、ドストエフスキーを含むサークルメンバーたちは馬車に乗せられ運ばれていった。

 

フォンタンカ川を渡り、セミョーノフスキー広場に連れていかれると、そこには3本の太い丸太が地面に突き刺ささるように立っていた。近くにはライフルを構えた兵士の一団と、僧衣に身を包んだ一人の僧侶が立っている。

 

恐ろしい現実が目の前につきだされていた。

 

連行された馬車から引き出されると、彼らには死刑判決が読み上げられ、直ちに刑を執行すると伝えられた。逮捕されたメンバーたちは三人ずつ横に並べられ、白くて長い服に着替えさせられ、僧侶の前で最後の告解を行う。

 

ペトラシェフスキーを含む最初の3人が丸太の棒に向かってそれぞれ歩いて行く。手は後ろに縛られ、目隠しをされた状態だった。

 

ドストエフスキーは2番目の列に並んでいた。

 

周りにいた仲間たちの中には泣き出すものもいた。怒り出すものもいたが、ライフルで小突かれ、黙り込んだ。

 

ドストエフスキーは、自分に残された時間があと数分間であることを感じていた。

 

狙撃を担当する3人の兵士が並び、広場は静まり返った。 将校からの号令があればすぐに射殺が行われる状態になった。

 

するとそのとき、馬の蹄と車輪の音が広場に響いた。別の馬車が到着したのである。中から一人の兵士が書類を手にして現れ、それを将校に渡した。

 

その書類は皇帝から直々に発せられたもので、死刑判決を軽減するという内容のものだった。

 

この死刑執行未遂はあまりにも残忍な経験だったため、ドストエフスキーの精神に大きな傷跡を残した。仲間のメンバーの中にはのちに精神に異常をきたしたものもいた、ドストエフスキーは書き残している。

 

結局誰一人射殺されることなく、全員がシベリアのオムスクにある収容キャンプに送られる。そこで4年間にわたり、手首と足首に枷を付けられて重労働に服した。さらにその後、軍隊に徴兵された。

 

 

 

傑作の数々をそれぞれ短時間で書き上げた

小説『死の家の記録』は、このシベリアでの経験をもとに書かれた。監視員たちによって理由もなく行われる暴行や残酷な行為、同じキャンプに収容されている人たちにひそむ悪意などと同時に、そうしたひどい状況の中でも見出すことが出来た善意や親切な出来事も記されたこの小説は、トルストイドストエフスキーの傑作と呼んだ作品であった。

 

自分自身の死に直面するという経験や、その後のシベリアでの過酷な体験に加え、持病のてんかんの発作の影響もあり、ドストエフスキーのその後の作品は心理的な深みを増し、さらに人間に関する探究を続けていくことになる。

 

1854年ドストエフスキーは釈放され、シベリアでの苦しい労働とそれに続く軍役から解放された。

 

しかしその後の10年間、彼はほとんどヨーロッパ各国を渡り歩いて暮らしている。 ギャンブル癖のあったドストエフスキーは常に債権者たちから追いかけられており、ヨーロッパ漫遊はこうした借金取りから逃げるために行われたのである。

 

1864年ドストエフスキーは妻と兄を続けて亡くした。その結果、妻の連れ子の世話と亡くなった兄の家族の財政面の責任を一気に背負うことになる。

 

こうした苦しい状況の中で大急ぎで書かれたのが『罪と罰』であった。1866年1月から12回に分けて雑誌「ロシア報知」に連載された。2年後には同じかたちで『白痴』が発表されている。

 

この1866年には、半自伝的小説と言われている『賭博者』も1か月足らずで書き上げている。これは意地悪な出版社のせいで原稿の早期提出を要求する契約に迫られてのことだった。

 

この契約には、もし原稿が遅れた場合はそれ以前に出版したすべての作品の権利を出版社が9年間にわたって抑えることが出来る、という条項が付されていたのである。このため、『罪と罰』の連載が続いている最中にこの『賭博者』を一気に書き上げるという無理な仕事をせざるを得なくなった。

 

 

 

当時は珍しい「貴族ではない作家」 

20世紀より前のロシアの著名な作家たちは、そのほとんどが特権階級の出身であった。よく知られたところではプーシキンが貴族の出身であり、トルストイも伯爵である。

 

こうした「ステイタス」のあった人物たちは、じっくりと考えて書く余裕が生まれつき与えられていた。

 

一方、ドストエフスキーは、決して貧困層の家庭に生まれはしなかったものの、特権階級の出ではなかった。父親は軍医で、のちにモスクワの貧民病院の医師となった人物だった。

 

ドストエフスキーの父親は1831年にはそれなりの不動産を手に入れるまで成功したが、1839年に亡くなった。彼は激しい気性のを持ったアルコール中毒で、一説によると自宅で働いていた農奴たちによって殺害されたという。

 

二年後、母親が結核で亡くなる。ドストエフスキーは10代で孤児となった。

 

しかしこのとき、彼は兄のミカエル宛ての手紙にこのような決意を書き記しているのである。

 

「私は自分を信じています。人間とは不思議なものです。人間とは解かなくてはいけない謎なのです。もし自分の人生をかけてこの謎を解こうとし続ければ、自分の人生を無駄にすることはないでしょう。この謎こそが私が最も関心を持っていることなのです。なぜなら、私は人間になりたいからです」。

 

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