ディケンズ念願の大邸宅 その支払いのために始めた「朗読ツアー」
1856年3月、チャールズ・ディケンズはケント州のロチェスターに不動産を購入した。
「ギャッズ・ヒル」と呼ばれるこの大邸宅は1,700ポンド(当時)。
この大金を支払うために、ディケンズは「公開朗読ツアー」というアイデアに行き着いた。
各地をまわり、自作の小説を聴衆に読み聞かせるというもので、その出演料を稼ぐのが目的だった。
友人のジョン・フォースターはこのアイデアに反対した。
作家が金儲けのために人前に出るというのは威厳を低めてしまうのでやめたほうがいい、というのが反対理由だった。
しかしそのアドバイスにもかかわらず、ディケンズは公開朗読を始める。
まずはロンドンからスタートし、イギリス各地をまわることになった。
彼はある意味すぐれたビジネスマンで、金の支払いがなければ何もやろうとしなかった。
また、聴衆の求めていることに応えるために何をすればいいかもよく分かっていた。
朗読では衣装こそ着ていなかったが、一人の役者のように演じきっていたという。
『オリヴァー・ツイスト』でナンシーが死ぬ場面では、ディケンズの朗読があまりに迫力があったため、観客席にいた若い女性が失神したという逸話も残っている。
ステージに上がる前には朗読する本の中の強調するべき箇所に線を引いたり書き込みをしたりしており、その準備にも抜かりなかった。
その後、朗読ツアーはアメリカでも行われ成功をおさめる。
ツアーは数年にわたって行われ続け、彼が登場する劇場はどこも満員だった。
こうして彼は公開朗読で収入を得て、それが出版物の販売促進にもつながり本も売れてゆく。
最終的にロチェスターに購入した邸宅の支払いを終えることが出来た。
少年時代をこの大邸宅の近くですごしたディケンズは、この建物の前を通るとき父親に「一生懸命に働けば、いつかこの家を買うことが出来るようになるかもしれないぞ」と言われたことを覚えていた。
そんな長年の野心がようやく実現したのである。
ディケンズはここで『大いなる遺産』や『二都物語』などを書き、1870年6月8日、脳内出血で亡くなった。
なおこの建物は1920年代から学校として使われるようになり、ディケンズのひ孫にあたるセドリック・チャールズ・ディケンズが校長を務めていたこともある。
参照:
- Secret of Charles Dickens's dramatic public readings all in his book annotations
- Charles Dickens's Kent mansion to be opened to public as museum | Books | The Guardian
- Gad's Hill Place | Charles Dickens Info