ドストエフスキー『罪と罰』をサスペンスの神様ヒッチコックが映画化しなかったのはなぜか?
ドストエフスキーの『罪と罰』は文豪の代表作のひとつであり、愛読者も多い。映画化やドラマ化も数多くされてきた。
比較的親しまれているこの長編小説だが、意外と知られていない興味深い豆知識をまとめた。
- もともと『罪と罰』は一人称で書かれる予定だった
- ロシア人にとっての「斧」
- 「ラスコーリニコフ」という名前の意味
- 出版当初のレビューは賛否両論
- 『罪と罰』の映画化は25本以上に上る
- ではなぜヒッチコックは映画化しなかったのか?
もともと『罪と罰』は一人称で書かれる予定だった
当初ドストエフスキーは、『罪と罰』を一人称の語り手による懺悔の物語にすることを意図していた。 しかし最終的に三人称の ”全知全能の声” に切り替え、苦悩する主人公の精神の中に読者を引きずり込むことに成功した。
ロシア人にとっての「斧」
斧はロシア文明の基礎となる道具であり、人間が森を征服するための手段であり、また労働の象徴でもあるという(ジェームス・ビルトン『The Icon and the Axe: An Interpretive History of Russian Culture』)。
小説の中でラスコーリニコフは武器として斧を選ぶが、これが後にシベリアで刑に服している際にほかの服役囚たちに嘲笑されることになる。 ラスコーリニコフのような教養のあるインテリが、肉体労働の象徴である「斧」を持って仕事に行くべきではなかった、と言われることになるのである。
「ラスコーリニコフ」という名前の意味
「ラスコル」は「分裂」を意味し、これは17世紀にロシア正教会の中で起こった不和を指している言葉である。 ドストエフスキー自身が熱心なキリスト教徒であり、自分の作品の中にロシア正教会のシンボルを残すように工夫を凝らしていた。
「ラスコーリニコフ」という名前は、過敏なインテリであると同時に斧を振り回すような分裂した性格のキャラクターを表すのに適した名前であると考えられたのである。
出版当初のレビューは賛否両論
雑誌に連載される形で発表された『罪と罰』は、すぐに注目の的となった。 しかし、誰もが好意的に見ていたわけではなかった。
過激な政治思想を持つ学生たちは、この小説が自分たちは殺人を犯す傾向があると言っているように感じたものもいた。 また、次のような逆説的な問いを投げかけた評論家もいた「学生が強盗のために殺人を犯したことがあっただろうか?」。
『罪と罰』の映画化は25本以上に上る
1923年の『Raskolnikow』はドイツのロベルト・ヴィーネの監督により作られた無声映画で、この小説の最初の映画化(の一つ)だった。 ヴィーネは表現主義の傑作『カリガリ博士』の監督として知られている。
その後、アメリカ、日本、フィンランド、インド、ソビエト、イギリスなどで、数多くの映画やテレビ版が作られてきた。
ではなぜヒッチコックは映画化しなかったのか?
これはヒッチコックがこの小説のレベルを自分の才能よりも下に見ていたからでは決してない。
映画監督のフランソワ・トリュフォーがかつてヒッチコックに「なぜ『罪と罰』を映画化しないのか」と尋ねたことがある。 するとヒッチコックはこう答えた:
ドストエフスキーの小説にはたくさんの言葉があり、その言葉にはすべてその働きがあります。それを本格的に映画として伝えるためには、書かれた言葉をカメラの言葉に置き換えて、6時間から10時間の映画を作らなければなりません。そうでなければ、良い映画にはならないんです。