ピーター・ラビットだけではない ビアトリクス・ポターの知られざる一面

 

 

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ビアトリクス・ポターは、「ピーター・ラビット」や「フロプシー・モプシー・カトンテール」などのキャラクターを生み出し、数多くの絵本を書いた作者として知られている。

 

しかしポターの活躍は、こうした絵本の世界だけではなかった。

 

ポターは1866年に自然に囲まれた裕福な家庭に生まれた。

 

幼い時から動物や昆虫、植物や菌類、化石などを勉強し、弟といっしょにそれらの採集を楽しんでいた。

 

一方、家庭教師からは当時の女性が身につけていなくてはいけないとされていた絵画や素描を教わった。

 

そして植物学の教養をもとに、数々の菌類のイラストを描き残しているのである。

 

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男性優位社会の犠牲に

もともと、彼女は自然科学の分野で認められることを望んでいたとも言われている。

 

しかし素描や水彩画が正当に評価されたのはその死後であった。

 

彼女の取り組み方は単なる肉眼での観察やイラストを描くだけにとどまらなかった。

 

いわゆる「菌類学」を本格的に研究し、ガラスのプレートの上でカビの胞子が成長する様子を細密に記録している。

 

1897年、ポターは博物学研究機関である「ロンドン・リンネ協会」に論文「ヒラタケの胞子の発芽について」を提出した。

 

しかし彼女はその発表の場には出席せず、彼女の叔父が代わりにこの論文を発表した。

 

当時このロンドン・リンネ協会に出入りできるのは男性のみとされており、女性の会員は1905年まで認められなかったのである。

 

ポターによるとこの論文は「よく受け止められた」らしいが、その後書き直すこともなければ出版されることもないままであった。

 

このように自然を愛し、優れた植物のイラストを描き、また本格的な研究に取り組んでいたポターであったが、当時最高の植物学研究機関であった「王立植物園」(キューガーデン)から学者として認知されることもなかった。

 

19世紀は科学の分野でも男性による支配が横行している最中であった。

 

そんな時代に女性一人で乗り込んで行くのは、事実上不可能であったのだ。

 

そのためポターは生涯「在野」の研究家のままであった。

 

ヒツジの保護活動

ポターはまた、湖水地方に生息するハードウィックシープと呼ばれるヒツジの保護に大きな役割を果たした人物でもあった。

 

すでに生前から著作が売れていたポターは、その収入をつかって湖水地方にある複数の牧場や土地を買い取った。

 

そしてその土地に暮らすハードウィックシープの育成に努め、優れたブリーダーとしての仕事をこなしていった。

 

そうしたブリーダーとしての活躍により、1930年代には数々の賞を受賞している。

 

さらにブリーダーたちの団体である「ハードウィック・シープブリーダーズ協会」の初の女性会長に選ばれた。

 

ポターは1943年に亡くなった。

 

残された15の農場や4000エーカーに及ぶ土地(およびそこに暮らす羊たち)はナショナル・トラストに寄付された。

 

彼女の遺言により、今でも土地はすべてハードウィックシープが牧草を食べて暮らす場所として保存され続けている。

 

 

 

出典:The Other Side of Beatrix Potter | JSTOR Daily