マーク・トウェインは奴隷制廃止論者 or 支持論者?

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ヘンリー・デイヴィッド・ソローの研究家として知られているRobert Sattelmeyerは、「ボストン・ヴィジランス・コミッティ」(Boston Vigilance Committee)の名簿上に、ある名前を発見した。

 

それは「サミュエル・クレメンス」(Samuel Clemens)という名前だった。

 

マーク・トウェイン」というのはいわゆるペンネームで、サミュエル・クレメンスとはトウェインの本名である。

 

果たして名簿にあるクレメンスはトウェインのことなのだろうか?

 

奴隷制廃止運動に参加?】

ボストン・ヴィジランス・コミッティは、その資金の多くを脱走した奴隷たちの解放を手助けするためにつかっていた。

 

これは1850年に制定された「逃亡奴隷法」に反する違法行為であった。

 

1854年9月、コミッティは25ドル50セントをサミュエル・クレメンスへ送金している。

 

使途は「ミズーリ刑務所からボストンへの旅費」とされ、「逃亡した奴隷たちを助けた罪で2年間投獄されていたため」とある。

 

つまり、クレメンスはボストン・ヴィジランス・コミッティの活動を通して逃亡奴隷たちの解放に関与していたが、それが発覚して2年間ミズーリ刑務所で服役した後、ボストンに戻るための旅費をコミッティから支給された、ということが推測できる。

 

のちにマーク・トウェインとなるサミュエル・クレメンスは1854年当時、19歳だった。

 

ミズーリ州出身のクレメンスは、17歳から19歳まで印刷工としてニューヨークやフィラデルフィアで働いていたが、大した成功をおさめることはできなかった。

 

その直後の1854~1855年という時期は、クレメンス(=トウェイン)の伝記の中でもあまり記録が残っていない部分であり、それがこのコミッティからの送金を受けたとされる時期にあたる。

 

しかし、クレメンスが奴隷制廃止論者だったという証拠は今まで何も発見されていない。

 

むしろ事実はその逆で、クレメンスは保守的な奴隷制支持論者であり、廃止論者を中傷する記事を載せた新聞の発行に印刷工として関わっていたことが分かっている。

 

また母親に宛てた手紙の中で、クレメンスは奴隷制廃止運動をしている人たちを「ひどい奴ら」と呼んでいるのである。

 

【 "負債" の返済】

では、クレメンスは当時 ”急進的” だった奴隷解放運動のグループに、スパイのような立場で入り込んでいたのだろうか?

 

上記のソロ―研究家Sattelmeyerは、あくまで推測だとしつつも「この名簿に出てくる “サミュエル・クレメンス” は、でっち上げで書き込まれたものである可能性が高い」と述べている。

 

その裏付けとして、1850年ミズーリ州国勢調査の記録には、「サミュエル・クレメンス」という人物は一人しか出てこない。

 

さらに、サミュエル・クレメンスという人物がミズーリ刑務所に収監されていたという記録はどこにも残っていないのだ。

 

 

では本物のクレメンス、すなわちマーク・トウェイン奴隷制の維持に賛成し続けた人物だったのであろうか?

 

トウェインはのちに、奴隷制廃止論者たちやその他のリベラルな人たちと会って話をすることで、その思想が変化していった。

 

そして、若いころは奴隷たちの立場というものに無関心であったが、今は白人たちが黒人たちに多大な “負債” を負っていると感じる、と述べていた。

 

そして数多くのアフリカ系アメリカ人の教育に物質的な貢献をするという形で、その “負債” の返済に努めたことが分かっている。

 

 

 

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