エドワード・サイードが見たサルトル ボーヴォワールやフーコーも同席したその残念な面会

f:id:moribayashitaro:20190704010606j:plain

 

アメリカの文学研究家エドワード・サイードは1979年にパリを訪れ、そこでジャン=ポール・サルトルシモーヌ・ド・ボーヴォワール、ミッシェル・フーコーと面会する。

 

中東和平を議論するコンファレンスにサルトルボーヴォワールから招待されてのことだった。 ちょうどエジプトとイスラエルとの戦争が終了した直後だった。

 

イードはこう語っている:

はじめ私はこの電報が何かの冗談かと思った。コジマ&リヒャルト・ワーグナーからバイロイトへ招かれたか、またはT.S.エリオットやヴァージニア・ウルフからコヴェント・ガーデンのオフィスで午後を過ごす招待を受けたか、そんな感じだった。

 

しかしこの招待は本物だった。

 

数週間後、サイードはパリへ発つ。

 

到着するとすぐ、ある「セキュリティ上の理由」から、コンファレンス会場はフーコーのアパルトマンに変更になったことを知らされる。 そこに到着すると、サイードはすぐにボーヴォワールと出会うが、サイードはあまりいい印象を受けなかったようだ。

 

ボーヴォワールはあの有名なターバンを巻いてすでにそこにいた。彼女はケイト・ミレーとともにテヘランを訪れる予定になっていて、その訪問について話をしていた。テヘランではチャドル(イスラム教徒の女性が着るからだ全体を覆う衣服)に反対するデモ行う予定だった。その考えそのものが、私には恩着せがましく馬鹿げたものに聞こえた。私はボーヴォワールの主張に耳を傾けることには前向きだったが、同時に当時の彼女は思い上がったところがあり、また議論できる状態ではないということにも気がついた。その後1時間かそこいらで(サルトルが到着する前に)彼女はその場を去ってしまい、二度と現れなかった。

 

さらにそれからしばらくすると、フーコーも「国立図書館で行う日々の研究のために」出て行ってしまったという。

 

またサイードフーコーについて、「孤高の哲学者」であり「厳格な思想家」だが、「中東政治について私に何も言いたがらなかった」と述べている。

 

唯一の例外はイラン革命についてで、フーコーはそれが起きたときに現地に居合わせた人物でもあった。 しかしフーコーは自分がイランにいたときのことを「とてもエキサイティングで、奇妙で、狂気じみていた」と表現したという。

 

 

 

イードによると、このコンファレンスではサルトルがその中心人物であった。 しかしそれにもかかわらず、彼はすでに「老い、衰えて」いるように見え、「彼の周りを数人の人々が囲み、その人たちによって助けられたり促されたりし、彼はそれにすっかり頼り切っていた」という。

 

昼食会では、その「偉大なる人物」がほとんど精神的に空っぽの状態であることにサイードは気づいた。 後になってサイードは、ボーヴォワールがいたらその場を活発にしてくれただろう、と納得したという。

 

サルトルの存在は、奇妙なほど受け身で、印象に残らないものだった。彼は数時間にわたって一言もしゃべらなかった。昼食会のとき彼は私の正面に座っていた。ひどく陰気で、まったくコミュニケーションを取れない状態だった。私は彼と話をしようと試みたが、どうにもできなかった。彼はすでに聴力を失っていたのかもしれない。

 

このコンファレンスでサルトルが行った唯一の発言のときも、彼は「タイプライターで打たれた2ページほどの用意された文章」を読んでいただけだった、とサイードは書いている。

 

それでもサイードは、サルトルのかつての主張(反植民地、反戦アルジェリア独立の支持など)から、パレスチナ人たちに対してある程度の同情は示してくれるだろう、と期待していた。

 

しかしそれはサイードの誤解だった。 「かつてのサルトルはもういなくなってしまったのだ」。

 

こうした、明らかに不愉快な思い出となってしまった面会の経験にもかかわらず、サイードサルトルに対する尊敬の念は変わらなかった。

 

イードはこう書き残している:

短時間で終わり、落胆させられたパリでの面会から1年後、サルトルは死去した。彼の死をどれほど悲しんだが、私はハッキリ思い出すことが出来る。

 

 

 

www.openculture.com