フランツ・カフカってどんな人?を知るための雑学

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フランツ・カフカは生前ほとんど評価されなかったことから、謎めいた作家として記憶されているが、さすがに没後1世紀にわたって様々な研究がなされ、今では20世紀で最も重要な作家として世界中で愛読されている。

 

しかし一般的には『変身』という奇妙な小説を書いた人という印象が強く、それ以外のことはほとんど知られていないというのが正直なところだ。

 

ここでは彼の文学作品とは直接かかわりのない、人としてのカフカを知るための豆知識をご紹介したい。

 

 

 

亡くなった兄弟姉妹たち

フランツ・カフカは合計6人の兄弟姉妹の長男だった。

 

弟であるゲオルクとハインリッヒは、フランツが7歳になる前に、それぞれ生後15か月、生後6ヶ月で亡くなっている。

 

3人の姉妹はガブリエル、ヴァレリー、オッティリーという。

 

三姉妹はナチスによってチェコスロバキア(当時)が占領されると、ゲットーに連行された(すでにフランツの死後)。

 

オッティリーはそこからテレージエンシュタット強制収容所に連行され、さらに1943年10月7日にはアウシュビッツ収容所に移送されたうえ、その日のうちにガス室で死亡。 他の2人の姉妹もホロコーストで死亡している。

 

フランツ本人は、食事のときにも痛みを感じるほどの結核を患い、長い闘病生活の末、1924年の春に亡くなった。

 

31歳で初めて一人暮らしをしたベジタリアン

ある日カフカは水槽の中の魚を見て、「いま、君たちを心安らかに眺めることができる。もうこれ以上は食べないことにしよう」と思い立ち、肉の代わりにベジタリアン料理を食べるようになった・・・と伝えられている。

 

同時代の人々は、彼が定期的な運動と頻繁な散歩で体の調子を整えていた、と証言している。

 

また自分で野菜を育てるためにガーデニングにも興味を持つようになった。

 

そんなカフカが初めて一人暮らしをしたのは、プラハのビルコバ通りだった。

 

しかし、これは彼が自ら一人暮らしをしたいと願ってアパートを借りたわけではなかった。

 

時は第一次世界大戦の最中で、義理の兄弟が軍隊に徴兵されたため、その妻であったカフカの妹たちは実家に戻ってくることになった。

 

そのため、カフカは実家に居場所がなくなり、やむを得ず一人暮らしを始めることになったのである。

 

ヘルメットを発明した(と伝えられる)法学博士

カフカプラハの有名なカレル大学で法学を学び、博士号を取得している。

 

その後、民事裁判所や刑事裁判所で働き、さらにプラハで事故や職業病の給付金を管理するの労災保険所で働いていた。

 

そこの仕事を通じして、カフカは労働者たちが多くの事故に巻き込まれていることに気付き、労働者の安全性を格段に高める「ヘルメット」を発明した・・・少なくともそういう話が残されている。

 

しかしこれは、あのピーター・ドラッカーがその著作の中で主張している逸話である。

 

さらにこの説を主張をしているのはドラッガーだけらしく、その彼にも裏付けとなる証拠はないらしい。

 

観光パンフレットを書き、工場の共同経営を任される

労災保険所の仕事では執筆に専念できるほどの収入が得られなかった。

 

そのため彼は友人のマックス・ブロートと一緒に、ヨーロッパの観光客向けの案内書を書くことで収入を補うことにした。

 

1911 年、カフカは義理の兄とともにアスベスト工場の共同経営者に就任する。

 

最初は熱意をもって仕事に取り組んでいたが、間もなくこの仕事に時間をとられると自分の執筆が思い通りに進まなくなることから嫌がり始めたという。

 

友人の "無視" のおかげで20世紀を代表する傑作が残る

カフカは自分の死後、未発表の原稿のすべてを燃やしてしまうよう友人マックス・ブロートに頼んでいた。

 

しかしブロートはこれに応じず、『審判』をはじめとするカフカの傑作を出版したのである。

 

カフカとその文学作品が評価されたのは、このブロートがカフカの要求に従わなかったおかげだった。

 

カフカの作品は、特に第二次世界大戦中に高く評価されるようになり、その後のドイツ文学に大きな影響を与えた。

 

1960年代に入り、東欧が官僚的な共産主義政府の支配下に置かれるようになると、カフカの文章は特に強く読者の心に響くようになった。

 

カフカの小説は、人間と人間性のない組織との関係について描いたもので、辞書にも新しい言葉「Kafkaesque」(カフカ的な)が含まれるようにすらなった。

 

1988年には『審判』の原稿がオークションにかけられ、198万ドルで落札されるなど、その存在感は金銭的な数値でもはっきりと示されるようになったのである。

 

 

 

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