労働者階級の味方だったディケンズが反対したイギリスの「窓税」

ほとんどの建物に設置されている「窓」だが、これが光や外気を屋内に取り入れるための “ぜいたく品” であり、窓のある部屋に暮らすことがある種の ”特権” だった、というのは、現代に暮らす私たちには想像できないことである。

 

政府はその特権に課税するようになり、ヨーロッパの複数の国で「窓税」(window tax)が導入された。イギリスではウィリアム3世時代の1696年に導入され、建物に設置された窓の数によって納税額が決められていた。

 

今でもイギリスを訪れると、窓と思しき場所ににレンガをはめ込んである建物を見つけることがあるが、これは窓の数を減らす当時の「節税対策」の名残である。

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イギリスの長い歴史の中で所得税は意外にも1842年になって初めて導入されており、それまでは個人所得を政府が把握するというのは、個人の自由を侵す可能性があるとして多くの人たちが反対していたという。

 

その分の税収不足を補うために、政府は人々の生活や活動に課税するために多くの税法をつくり出し、「窓税」(window tax)もそのひとつであった。1797年にはナポレオン戦争の軍資金のために、この窓税が3倍にされたこともあった。

 

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窓税反対を訴えたディケンズ

チャールズ・ディケンズは生前から成功して名の売れていた作家であり、彼の影響力もその成功にともない大きくなっていった。彼は自身が編集を行う雑誌「Household Words」を刊行し、これを政治や社会問題に関する意見発表の場として活用した。

 

1850年、この雑誌が刊行される1か月ほど前、ディケンズの友人であるチャールズ・ナイトが手紙をよこしてきた。そこでナイトは紙に対して課せられる税金「紙税」に対して、反対意見を述べるつもりはないか、と尋ねてきた。

 

これに対してディケンズは「あなたに同意します」と述べているが、その一方で「窓税が廃止されるまで紙税に対する反対意見を述べる勇気はありません」という旨の返事をしている。「人々は光がなくては読むことが出来ないからです」。

 

このナイトからの依頼がきっかけとなり、ディケンズは実際に動き始めた。雑誌「Household Words」の第一号が刊行されてから数か月後、彼は窓税を批判する記事を発表させた。執筆したのはこの雑誌の共同編集者であったウィリアム・ヘンリー・ウィルスという人物で、窓税の本当の犠牲者は世の中で最も忘れられている人たちである、という主旨の内容だった。

 

貧しい人たちは光のない、閉鎖的で靄のかかったような部屋の中で、流行病に悩まされたまま暮らしている。その本当の原因は外から光や空気が入ってこないからかも知れない。それにもかかわらず、このことについて思いを向ける人たちなどいないではないか、と訴えている。

 

さらに数か月後、ディケンズ自身がこの議論に乗り込んで行く。彼はある友人からこの窓税というものがいかに馬鹿げていて性質の悪いものであるかを聞き、いわゆるお役所仕事を批判する文章を書いた。その中でディケンズイングランドの役人たちの仕事ぶりをユーモラスに批判しつつ、裕福でない人たちが疲弊した生活を送り続け貧困へ落ち込んで行く状況を述べ、彼らへの保護を訴えた。そしてその原因の一つとして、納税の義務を上げている。

 

 

 

成功した作家が持ち続けた労働者階級の視点 

このようにディケンズはすでに作家として成功したあとも、労働者階級の人たちの視点を忘れることはなかった。それは12歳のときの経験が大きな影響を及ぼしている。

 

1824年、ディケンズの父親は負債の返済が出来なくなったため債務者監獄に収監された。12歳のディケンズは親の友人宅で暮らすことになり、学業は続けることが出来ず退学を余儀なくされた。それに代わって汚い工場で働かされ、一日10時間靴墨の入れ物にラベルを貼る仕事をやることになった。

 

この経験がのちのディケンズの人生を形作ることになる。大学に進学することが出来なかった彼は、独学で勉強を続け、国会を取材するジャーナリストになった。しかしその後もイングランドの貧民層の人たちのことを考え、また彼らについて書き続けた。そしてジャーナリストとして、さらには小説家として、労働者階級の人たちの悩みや不安定な生活を描いていくのである。

 

156年間続いたこの窓税は1851年に廃止された。もちろん、ディケンズの発言だけが力となって廃止に追いやられたのではない。しかし当時最も影響力のある著述家の一人であった彼が、その小説以外でも、弱者の立場から発言を続けていたこともまた事実なのである。

 

 

 

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