ドストエフスキーってこんな人 あらためて学ぶ10の予備知識

 

 

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25歳で最初の本を出版した

ドストエフスキーの人生は恵まれたスタートを切ったといえる。裕福な家庭に生まれ育ったため、若いうちにしっかりとした教育を受けてきた。しかし作家になるための勉強を積み重ねていたわけではなかった。陸軍工兵学校に入学したが、彼の性には合っていなかったようだ。卒業後にエンジニアとして就職したが、その職を辞する前から彼は文学に向かい始めた。最初の仕事はフランス文学のロシア語訳だった。その後1845年、25歳の時には翻訳から小説に移行し、最初の小説『貧しき人々』を書き上げる。ロシア最初の「社会小説」と呼ばれているものである。

 

1864年に世界最初の「実存主義」文学を書いた

セーレン・キルケゴールがいわゆる実存主義哲学の基礎となる論文を発表したあと、それほど時間がたたないうちにドストエフスキーは最初の実存主義文学とみなされる小説を書き上げている。『地下室の手記』に書き表されたその哲学的基礎は、個々人こそ哲学的思考の基礎を作り上げるものであり、人生に意味を与える責任は私たち一人ひとりにある、というもの。20世紀になってからカフカ『審判』、カミュ『異邦人』、ベケットゴドーを待ちながら』などの作品が書かれたが、これらに共通する思想は1864年ドストエフスキーがこの『地下室の手記』ですでに描いていたのである。

 

死刑宣告され、執行直前に恩赦を得た

1840年代、ドストエフスキーは社会改革を最終目標とする文学サークルに加入していた。そのサークルでは禁書を読み、検閲や農奴制を廃止するなど社会変革を議論していた。当時のヨーロッパの政治情勢から、こういった思想はロシアでも権力にとっては危険な考え方だとみなされていた。サークルのメンバーたちは逮捕・投獄され、すぐに死刑が言い渡された。しかしその刑が執行される直前に電報配達人が到着し、刑執行の停止を言い渡す皇帝からの通達が届けられたのである。代わりにシベリアに送られたドストエフスキーは、その後8年間にわたって服役することとなった。

 

文学の素養が養われる環境で育った

ドストエフスキーの家庭は裕福であったため、子供の教育は優先して行われた。彼がわずか3歳の時には、子守の婆やが昔話やおとぎ話を読み聞かせてくれた。4歳になると母親が聖書を使って彼に読み書きを教え始めた。こういった子供時代の教育が彼の文学の素養を育み、ロシア文学の父と呼ばれるアレクサンドル・プーシキンを始め、セルヴァンテス、ゲーテホメロスなどへ読書の幅を広げていったのである。

 

生涯にわたっててんかんの発作に悩まされた

ドストエフスキー陸軍工兵学校時代から少しずつ病の兆候を示していた。1839年、18歳の時に初めててんかんの発作を起こす。シベリアでの服役時代にはその症状が悪化していった。その後も症状が回復することはなく、むしろ悪化の一途をたどってゆき、ほかの病との合併症で1881年に59歳で亡くなった。

 

後進の作家たちに大きなインスピレーションを与えた

ドストエフスキーが少年時代に読んだ文豪たちに大きな影響を受けたのと同じく、彼自身ものちの作家たちに大きな影響を与ええる文豪となった。フランツ・カフカは彼を「血縁者」と呼んでおり、その作品に明らかな影響が見て取れる。アーネスト・ヘミングウェイジェイムズ・ジョイスは彼を崇拝し、またニーチェフロイトは深くて暗い複雑な心理へ滞ることなく入り込んでいくドストエフスキーの手法について負うところがあると述べている。

 

皇帝アレクサンドル2世の息子たちの家庭教師に任ぜられた

晩年になるとドストエフスキーの名声は広まってゆき、その作品はロシアやほかのヨーロッパ諸国で広く評価されるようになった。彼はしばしば西ヨーロッパ、とくにドイツの温泉地であるバート・エムスに治療目的で訪れていた。ある旅行からロシアに戻ってくると、皇帝アレクサンドル2世から連絡があり、ドストエフスキーの次回作を読んで聞かせてほしいという要望が伝えらえた。彼が喜んでその朗読に赴くと、今度は皇帝の二人の息子たちの教育係になってほしいという依頼を受ける。こうしてドストエフスキーは彼にとって最大の人脈を手に入れることになる。こののち、彼は数々の著名な人たちの仲間入りをすることになるのである。

 

国際著作権法学会の名誉下院だった

健康状態が悪化する中、彼の名声は高まっていった。1879年は息子のアリョーシャを亡くし辛い時期を過ごしていたドストエフスキーだが、数多くの賞など授与された。そのうちのひとつに「国際著作権法学会」の名誉会員がある。ほかにはヴィクトル・ユーゴ―、レフ・トルストイ、ラルフ・エマーソン、ヘンリー・ロングフェロー、アルフレッド・テニソンなども名誉会員に選ばれている。前年の1878年ユーゴーによって創設されたこの学会は、今日でも作家たちの著作権保護を目的に運営されている。

 

ドストエフスキーをめぐる女性たち

ドストエフスキーは2度結婚している。最初の妻は1864年に死去し、その後二人目の妻を迎え入れた。しかし妻以外の女性たちともいくつかの関係をもっていた。初めての相手は最初の結婚前で、ある女性にプロポーズしたが断られた。続く二人の女性とは、最初の妻との結婚生活中の不倫だった。一人は喜劇女優、もう一人は非常に強いエゴの持ち主であったにもかかわらず彼はその女性に深く入れ込んでいた。しかしこうした女性たちとの関係も、二人目の妻と出会ってからは続くことはなかった。再婚相手のアンナは『賭博者』執筆の際の速記係だった人である。結婚当時アンナは21歳。ドストエフスキーが亡くなったときにはまだ35歳だったが、その後は独身を貫いた。

 

ロシア正教会の信者だった

人間心理のほかに、もう一つドストエフスキーの関心を引いたのが宗教であった。彼はロシア正教会の信者として育てられた。しかし教会のメンバーの中には彼があまり好まない人がいることも分かり、その後は信仰のスタイルが変化していった。キリストを拝むことに変わりはなかったが、数多くの書物を読み漁ってこの宗教について考え続けた。ドストエフスキー自身は自分の信仰について他者に明言することはなかったため、今でもこれは文学者たちの間で大きな議論の的となっている。

 

 

 

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