シャーロット・ブロンテをもっとよく知るための10の知識

 

 

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1. 5歳の時に母親を亡くす

ブロンテ姉妹の母親マリア・ブランウェル・ブロンテは1821年、卵巣腫瘍(または産後の感染症の説もある)で亡くなった。38歳の若さだった。後には夫のパトリック・ブロンテと6人の子供たちが残された。

マリアの死から数年後、シャーロットを含む娘たち4人を聖職者の娘たちが通う全寮制の寄宿学校へ入学させた。シャーロットがこの学校で経験した厳しく惨めでつらい生活が『ジェーン・エア』のローウッド学園のインスピレーションとなっている。

成人してから、シャーロットは手紙の中で「母が生きていて、私が母のことを知っていたらよかったのに」と書き残している。

 

2. 子供の頃から詩や文章を書いていた

寄宿学校の通信簿には、彼女の能力は「年齢を考えると総じて賢いが、系統的には何も分かっていない」と記されている。しかしシャーロットは子供の頃からティーンエージャーの時代にかけて旺盛な読書家として過ごした。そして物語を書き始め、弟や姉妹たちと一緒に自宅で演劇を披露したこともあった。

特に弟のブランウェルとともに文章や戯曲、物語、文学作品にまつわる素描などを書き残している。また遊び半分で雑誌を作り上げたこともあった。その雑誌にはエッセイ、書簡、詩歌、広告、さらに編集後記など、実際の雑誌に掲載されているものはことごとく掲載されていた。

 

3. 学校の先生や家庭教師の仕事を好まなかった

10代の終わりから20代の初めにかけて、シャーロットは断続的に学校の先生や家庭教師として働いていた。書き物を続ける傍ら学校教師の仕事を続けていたが、長時間働くことは好まなかった。また家庭教師の仕事もも好きではなかった。友人に宛てた手紙の中でシャーロットは「私のように大家族の真ん中に投げ込まれ、そこに閉じ込められた哀れな人を想像してほしいものです。ここでは欲しがるものは何でも与えられ、甘やかされ、騒いでいるだけの子供たちを、楽しませ、同時に教育することを要求されているのです」。

彼女は教育という仕事が自分に合っていないことに気づいたが、のちにこうした経験が『ジェーン・エア』の中で活かされている。

 

4. 作品出版までに何度も拒絶され続けた

20歳の時、シャーロットは自作の詩のいくつかを当時のイギリスの桂冠詩人であったロバート・サウジーに送った。1837年にサウジーから返信があり、彼はシャーロットにはかなりの才能があり、また言葉について天賦の素質を持っていると認める一方、それでも物書きはやめたほうがいいと説いている。

「文学は女性の生業にはなり得ません。またなるべきでもありません。女性が本来果たすべき役割に従事すればするほど、その人が文学のために使える時間は無くなっていきます。たとえ自己実現や娯楽のためであっても、やめたほうがいいのです。あなたにはまだ女性が果たさなくてはいけない役割が与えられていないのです。それが与えられれば、名声に対するあなたの熱意は小さくなるでしょう。興奮できることを求めて想像の世界を探し回るようなことはしなくなってしまうでしょう」。

最初の小説『教授』は9回にわたって出版社からはねつけられており、結局シャーロットの死後に出版された。

 

5. 「カラー・ベル」という男性のペンネームを使用した

1846年、シャーロットは自分の書いた詩とエミリーやアンの書いた詩をあわせて1冊の詩集にまとめ、自費出版した。しかしそのときは本名ではなく、3人とも男性のペンネームを使った。シャーロットは「カラー・ベル」、エミリーは「エリス・ベル」、アンは「アクトン・ベル」という "3人兄弟" に成りすましたのである。この詩集はわずか2部しか売れなかった。

シャーロットはこのカラー・ベルという男性ペンネームを『ジェーン・エア』を出版するときにも使った。出版社はこの「ベル」という作家が実は女性であるということを、『ジェーン・エア』が出版されて1年も過ぎた1848年まで知らなかったという。

 

6. 『ジェーン・エア』は出版直後に大成功をおさめた

1847年、イギリスの出版社「Smith, Elder & Co」が『Jane Eyre: An Autobiography』(ジェーン・エア:ある自叙伝)を出版した。出版直後からこの本は大きな成功をおさめた。ある批評家は「今季最高の小説」と絶賛し、人々はこの「カラー・ベル」なる作家とは一体誰なのか、うわさをし始めた。

一方、あまりいい印象を持たなかった人たちもおり、内容が粗雑であるという意見もあった。中には「アンチ・クリスチャン」の小説だと批判するものもいた。当時のイギリスはヴィクトリア時代で、自由恋愛などというのは “はしたない” ことだったのである。

 

7. 姉妹たちの命を奪った結核の感染から免れたが・・・

シャーロットの兄弟姉妹のうち、少なくとも4人は結核で命を落としている。

1825年に姉のマリアとエリザベスが亡くなった。二人ともまだティーンエージャーにすらなっていなかった。

1848年には唯一の兄弟であるブランウェルが死去した。死因は慢性気管支炎とされているが、彼の場合も飲酒とアヘンの服用によって悪化した結核が本当の死因である可能性がつねに言われ続けてきた。

このブランウェルの葬儀の最中、エミリー・ブロンテが病に倒れ、3か月後に結核で死去。

さらにその5か月後の1849年5月、シャーロットにとって唯一生き残ってくれた妹アン・ブロンテが、長い闘病生活ののち結核で亡くなっている。

 

8. ・・・シャーロット本人は38歳のとき、妊娠中に死去

1854年6月、シャーロットは牧師のアーサー・ベル・ニコルズと結婚した。そしてすぐに妊娠した。

しかし彼女の妊娠は非常に苦しいものとなった。つわりが極端にひどく吐き気が止まらなかったため、脱水症状と栄養失調に陥ってしまった。

1855年3月31日、シャーロットはお腹の中の赤ちゃんとともに亡くなった。正式な死因は分かっていないが、死の直前の症状から「妊娠悪阻(おそ)」またはチフスが死因であろうと推測されている。

なおシャーロットがなくなったとき、姉妹たちの父親パトリック・ブロンテは78歳で健在だった。パトリックは妻と6人の子供たち全員に先立たれたのである。

 

9. 今でも世界中のブロンテ・ファンがイギリスにある「聖地」を訪れる

エミリーとアンもそれぞれ『嵐が丘』と『アグネス・グレイ』という有名な作品を残している。ブロンテ姉妹の著作は世界中で愛読され、ファンたちは姉妹のホームタウンであるイングランドのヨークシャーにあるハワースを訪れるようになった。

ブロンテ協会の運営する「Brontë Parsonage Museum」には、初期の手稿や手紙が展示されており、またこの博物館自体がブロンテ一家の暮らしていた建物であるため、その周辺には姉妹たちが作品中に書き記した風景の原型を発見することができるのである。

 

10. 「シャーリー」という男性の名前を女性の名前に変えた

シャーロットは1849年、2作目の小説『シャーリー』を発表した。この「シャーリー(Shirley)」という名前は珍しい名前で、当時は男性の名前とされていた。しかしシャーリー・キールダーという女性相続人が主人公であるこの小説がきっかけとなり、現在では女性の名前として使われるようになった。

『シャーリー』では、主人公の両親が男の子を望んだため娘にこの名前を付けた、という設定になっている。

 

 

 

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