アレクサンドル・デュマ 名声の頂点を象徴した「モンテ・クリスト城」

 

 

f:id:moribayashitaro:20180517155553j:plain

 

「モンテ・クリスト城」は3階建てのネオルネッサンス様式の建物である。

 

アレクサンドル・デュマはこの建物を「地上の楽園」と呼んでいた。

 

1844年、『三銃士』を発表したデュマはその名声の頂点にいた。

 

そんな彼は、パリから西へ20キロのところにあるサン=ジェルマン=アン=レイという場所に、ブドウ畑として使われていた土地を購入した。

 

セーヌ川を見下ろすこの地の牧歌的な雰囲気に魅せられたデュマは、当時著名な建築家であったイポリット・デュランに壮大な建物の建築を依頼した。

 

「この場所に、水に囲まれたゴシック様式の付属建築を正面に据えたルネサンス様式の城の真ん中にイギリス式の公園を造ってほしい」という注文内容だった。

 

その後、傑作『モンテ・クリスト伯』を完成させてから1年後の1847年7月、待望の「城」が完成した。

 

デュマはこの城をその傑作にちなんで「モンテ・クリスト城」と命名する。

 

友人や崇拝者、またはよく知らない人たちまでを含めた600名を招待し、盛大な開城パーティを開催した。

 

デュマはこの手の盛大なパーティが大好きだった。

 

この後も豪華で美味しい食べ物が盛りだくさんのパーティを数多く開催し、これはデュマの財産が底をつき無一文になってしまうまで繰り返された。

 

デュマは取り巻き連中のばか騒ぎを避けて執筆に専念するために、庭にあるゴシック様式の付属建築内に書斎を用意した。

 

モンテ・クリスト伯』の舞台となった南仏のイフ城にちなんで、この書斎を「シャトー・ディフ(イフ城)」と命名した。

 

モンテ・クリスト城は大げさにも「城」などと名付けられているが、メインの建物は大型住宅にすぎない。

 

正面は花柄や天使、楽器、さらには奇妙な神話上の動物たちのモチーフで飾られ、その控えめな大きさを補おうとしている。

 

1階の窓の上にはシェイクスピアをはじめとする著名な文豪たちの彫刻が飾られ、また正面玄関の上にはデュマ一家の部屋があり、そこには3匹の鷲とデュマのモットーである「J’aime qui m’aime」(私は私を愛してくれる人を愛する)という言葉が掲げられている。

 

オノレ・ド・バルザックは「モンテ・クリスト城は、今まで作られた中で最も豪華なお菓子箱のような狂気の沙汰」と書き残している。

 

しかし、デュマはベストセラーによって稼いだ莫大なお金を豪華な生活と女たちにつぎ込みすぎた。

 

一説によると、デュマには愛人が40人いたとも言われている。

 

結果、翌1848年にはこの城を売却せざるを得なくなった。

 

売却したお金でも借金の返済は終わらず、デュマは借金取りから逃げるように1851年にベルギーに逃亡するのである。

 

 

 

www.theguardian.com