オースティンからローリングまで 文豪16人が愛用した文房具あれこれ
どの世界のプロたちも自分の「商売道具」には強いこだわりを示す。文学の世界もまたしかり。世界の文豪たちはどんな文房具を愛用していたのだろうか。
ナボコフはインデックスカードに自分の小説の筋書きを描く際は、鉛筆「Eberhard Faber Blackwing 602」を好んで使っていた。
ヘミングウェイは執筆のときふつうの鉛筆とタイプライターをバランスよく使いこなした。書き始めるときは一気にタイプライターで書き、推敲は鉛筆で行っていた。
またパリ滞在記『移動祝祭日』には、書斎についてのこだわりが描かれている。
「青い装丁のノート、二本の鉛筆、鉛筆削り、大理石のテーブル、コーヒークリームの香り、早朝の清掃の後の匂い、そして幸運が、必要なもののすべてだ」。
ケルアックはポケットサイズのノートと学校で使う古いタイプの作文帳がお気に入りだった。こうしたものに文章を書きつけていたが、その一方で若いころは、スポーツの試合を空想し、その内容を書きつけて遊んでいた。
ボーヴォワールは万年筆で書いているところを撮影された写真がたくさん残っている。それらの写真で彼女はシーファー・スノーケル、シーファー・スノーケル・トライアンフ、イースターブルックなどを手にしている。
キングはかつてウォーターマンの万年筆を「世界でもっとも繊細なワープロだ」と評したことがあった。彼は自動車事故のケガが原因でパソコンの前に座っていることが出来なくなり、手書きを始めた。しかし万年筆を使って書くことによって、執筆のスピードが遅くなり、一語一語を丁寧に考えざるを得なくなったという。
トウェインは自分でデザインした革装丁の特製ノートを好んでいた。インデックスタブのついたノートになっており、一ページ使い終わるとそのタブをちぎり取って、次にどのページから書けばいいか分かるようにして置いた。
お気に入りの万年筆はコンクリン・クレセントで、机の上から転がり落ちてしまうことがないというのがその理由だった。1890年代になるとリューマチが進行して手書きが出来なくなり、そのときは左手で書こうと試したこともあった。結局、速記を雇って執筆をつづけることになった。
ディラン・トーマス
トーマスはいわずと知れた万年筆「パーカー51」を使用していた。インクが早く乾きやすいという利点があるらしい。
スタインベックは鉛筆を愛用していた。彼は執筆を始めるときは鉛筆を24本用意していた。「ブラックウィング」の鉛筆を好んで使っていたが、「Mongol 480」という鉛筆も愛用していた。『エデンの東』を書き上げるのに300本、『怒りの葡萄』と『キャナリー・ロウ』を書くのに60本の鉛筆を使いきった、と言われている。
「いいや、私はタイプライターは使わない。第一稿は手書きで書く。第二稿も手書きで仕上げる。それからようやく第三稿を黄色い紙にタイプライターで打っていく。特別な黄色い紙があるんだ。これをやるときにはベッドから出ない。膝の上においてやる。そうだよ、これが上手く行くんだ。1分間に100語は書くことが出来る」
チャールズ・ディケンズ
ディケンズは青い紙に青いインクで書いていたことで知られているが、それを始めたのは1840年代になってから。それまではふつうの黒のインクを使っていた。
鉛筆製造業の家に生まれたソローは、若いころ家業である鉛筆工場で働いていた。グラファイトに粘土を混ぜて柔らかい鉛筆の芯をつくるというのはソローの発明だった。ソローはいつもノートに鉛筆を持ち歩いていたと言われている。
J. K. ローリング
今でこそ富豪となった作家であるローリングだが、『ハリー・ポッター』シリーズを書き始めたときはルーズリーフの紙にペンで書いていた。
ドイルはパーカーの「デュオフォールド」で、そのいくつかの作品を書き上たことが分かっている。
クリスティーは「Remington Home Portable No. 2」というタイプライターで執筆していた。
夫テッド・ヒューズの詩集『Birthday Letters』の中で、プラスがシーファーのペンを使っていたことが書かれている。
オースティンはいわゆる羽ペンと没食子インク (もっしょくしインク、英:iron gall ink )を使って小説を書いていた。没食子インクは没食子酸、硫酸鉄、アカシア樹脂を原材料とした自家製のものらしい。