新ジャンルを確立した『フランケンシュタイン』の著者メアリー・シェリーとは?
1816年、19歳になろうとしていたメアリー・シェリー(1797~1851)はバイロン卿、将来の夫となるパーシー・ビッシュ・シェリー、医師ジョン・ポリドーリらとともに、スイスのレマン湖畔に遊びに出かけた。
前年のインドネシア・タンボラ火山の噴火が原因で「夏なき一年」と呼ばれた薄暗い毎日が続いたため、一行は屋内で娯楽に興じていた。
ある晩、バイロンがその場に居合わせた面々に対して、誰が最高のホラー小説を書けるか競おうと持ち掛けた。
ここでメアリーが書き上げた作品が、のちの『フランケンシュタイン』であった。
実際のところ、メアリーはこの本を一晩で書き上げたわけではなく、1年近くかけ完成させている。
それにもかかわらず、この出来事は文学史上最も興味深い "夏の一夜" として語り継がれてきた。
なお、同じタイミングでポリドーリの書いた『吸血鬼(The Vampyre)』は、のちにブラム・ストーカーの『ドラキュラ伯爵』に影響を与えた作品である。
つきまとう悲劇にインスパイアされた作品
メアリー・シェリーの母親メアリー・ウルストンクラフトは1792年に『女性の権利の擁護(A Vindication of the Rights of Woman)』を発表し、フェミニズム思想のパイオニアとして名を残す人物である。
また父親ウィリアム・ゴドウィンは無神論主義哲学者として著名な人物であった。
二人の娘であるメアリーは、こうしたロンドンのリベラルな知識階級の家庭に誕生した。
しかし母ウルストンクラフトはメアリーの生後すぐに亡くなってしまう。
父親は新しい妻を迎えたが、彼女はメアリーに正式な教育を受けさせようとはしなかった。
その代わり、メアリーは独学で自らを教育していった。
パーシー・ビッシュ・シェリーと出会ったとき、メアリーは16歳だった。
当時パーシーには妻がいたが、二人は恋に落ちた。
既婚者との恋愛沙汰で父親を怒らせてしまったメアリーはパーシーと駆け落ちし、ヨーロッパ中を旅してまわることになる。
その後、産まれた子供たちが早死するなど、二人には悲劇が付きまとった。
こうした経験を経て、愛する者を取り戻したいという思いにインスパイアされたことから、「科学者が死者を組み立て一体の怪物を作り上げる」という小説の発想が得られたものと考えられている。
SFとマッドサイエンティスト
1818年『フランケンシュタイン』は出版され、その後も時を超えて読み継がれる最も人気のあるゴシック小説となった。
しかしこの小説を書いた当時、メアリーはまだティーンエージャーだったのである。
さらに、この小説は「サイエンス・フィクション」という新しいジャンルを確立し、「マッドサイエンティスト」という永遠に語り継がれるキャラクターを生み出した。
この本は初め匿名で出版された。これは当時、女性が書いた本は匿名で出版される慣習があったからである。
その内容が男性的であるとみられたことも原因で、この本の作者はメアリーではなくパーシー・シェリーだとする人が多かった。
またシェリー夫婦はお互いの仕事に協力的で、編集やプロモーションを助け合っていたことが知られており、『フランケンシュタイン』についてパーシーが書き記したメモが発見されたこともあった。
こういう経緯もあり、現在でもこの小説の本当の作者がメアリーではなくパーシーだと信じている人たちがいるらしい。
もう一つの勘違いとして「フランケンシュタイン」という名前のキャラクターがある。
これはヴィクター・フランケンシュタイン博士という怪物を作り上げた作中人物の名前であり、怪物そのものに名前は与えられていない。
1910年、発明王トーマス・エジソンが製作した映画でこのフランケンシュタインが取り上げられて以来、今日に至るまで映画・舞台で数々の作品をインスパイアしてきた。
1822年、夫パーシー・シェリーはラ・スペツィアで水死するが、その後もメアリーは執筆活動を続け、小説、短編集、エッセイ、伝記、紀行文を書き、亡き夫の詩集の編纂も行った。
そして1851年、脳腫瘍で53歳の生涯を閉じた。