ロマン・ロランとタゴール 二人の人道主義者の長きにわたる友情

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「過去の戦争の教訓が失われて始めているという思いで、私の心が悲しみの中に入り込んでしまっているとき、あなたの手紙を受け取り、その希望のメッセージによって励まされました」。

 

これはインドの詩人ラビンドラナート・タゴールが1919年6月24日、フランスの作家ロマン・ロランへあてた手紙の一文である。

 

タゴールはその数か月間に起きた「アムリットサル事件」の知らせを受け、大きなショックを受けていた。

 

アムリットサル事件というのは1919年4月、市民集会の参加者に向かって軍の部隊が無差別射撃を行い、多数の死傷者が出た事件である。

 

この事件が起きた直後、タゴールはロランから手紙を受け取った。その手紙は「Declaration of Independence of the Mind」への署名を依頼したものだった。

 

「Declaration of Independence of the Mind」とは、芸術文化活動がプロパガンダや破壊行為、差別行為などに加担しないことを宣言するためにロランが書いたマニフェストで、タゴールに加えバートランド・ラッセルアルベルト・アインシュタインステファン・ツヴァイクヘルマン・ヘッセなど、当時の代表的知識人たちがこの宣言に署名した。

 

この署名依頼の手紙が、その後1940年まで続いた二人の実りの多い交流の始まるきっかけとなったのである。

 

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タゴールはロランを「私のとても親愛なる友」と呼んでおり、二人のあいだには深い友情が築かれていった。

 

ロランはフランス語で手紙を書き、一方タゴールは英語で書いていたため、双方にそれぞれ翻訳者がついてその交流が続けられた。それについて1921年4月、タゴールはこう書いている。

 

「あなたは言語の壁ということをおっしゃいました。確かに壁はあります。しかし、私たちの中にある最も重要なものが、それを乗り越える道を見つけてくれるのです。雲は太陽を隠してしまいますが、その日を消してしまうことなどできないのです」。

 

 

 

この二人が初めてお互いを知ったのは、タゴールが日本滞在中に東京帝国大学で行った講演がきっかけだった。その講演内容は遠くフランスにも報じられ、それを知ったロランがタゴールの言葉を書き抜きしていた。

 

ロランは日記でタゴールの講演についてふれ、「人類の歴史のターニングポイントだ」と書いている。そしてタゴールを「燃えあがる喜びの炎でありながら、西洋の憂うつな霧にかき消されてしまっている」人物であると評した。

 

タゴールムッソリーニ訪問

1925年、タゴールムッソリーニの招待を受けてイタリアを訪問した。

 

人道主義を訴えていたタゴールファシストの招待に応じたということで、当時のメディアは大騒ぎになった。さらに翌26年にもタゴールはイタリアを訪問する。

 

しかしその直後タゴールはロランに招かれ、スイスのヴィルヌーヴに数週間滞在した。その滞在中、タゴールは自分のイタリア訪問が誤りであったことに気づいたと言われている。

 

ロランはタゴールファシズムの実態に目を向けるよう諭す役割を果たした。 後日タゴールはロランに「イタリア滞在中に自分自身を汚してしまった行為を浄化しなければなりません」と書き送っている。

 

タゴールの二回のムッソリーニ訪問は、今となってはこの独裁者の策略によるものだろうという意見が多い。1924年社会主義グループのリーダーを殺害したことで国際的批判の的になっていたムッソリーニが、人道主義を訴えている人物を公式に招待することでイメージアップを狙ったもので、タゴールはそれに引っかかったのだ、というのが今の通説になっているようだ。

 

ロランとタゴールの交友関係はタゴールの死の直前まで続いた。

 

1941年、ロランはタゴールの死をラジオで知る。 ロランのその日の日記には「世界は暗闇に飲み込まれてしまった」と書かれてあった。

 

 

 

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