サルトルはなぜノーベル文学賞を辞退したのか?

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ジャン=ポール・サルトルは1964年、ノーベル文学賞を辞退した。

 

サルトルスウェーデンのメディアに送ったコメントの中で、辞退はパフォーマンスでもなければ、衝動的に行ったわけでもない、と述べている。彼の長きにわたる主張に沿った行動として辞退したのだ、と主張した。

 

「私は今までも正式な名誉は断ってきました」

 

そして1945年にレジオンドヌール勲章を辞退したときも、やはり同様の理由だったと述べている。

 

「私のこの姿勢は、書き手としての考え方に基づいています。ある作家が政治的、社会的、もしくは文学的な立場を採用した場合、作家は自分自身が持つ手段である言葉を書くことによってのみ行動しなくてはいけません。その作家が受けた名誉は、彼の読者に望ましくない圧力をかけることになるのです。”ジャン=ポール・サルトル” と署名することと、”ノーベル賞受賞者ジャン=ポール・サルトル” と署名することとは、同じことではないのです」

 

よって、たとえ最も名誉あるものであったとしても、作家である私自身を確立された存在に変えてしまうことは拒むべきである、というのがサルトルの受賞辞退の理由であった。

 

辞退の理由はもう一つあった。

 

社会主義の立場で文筆活動を行っている自分は、「東側と西側、それぞれの文化の平和的な共存」が実現することを望んでいる。そのためには、自分はどちらの側の団体からも独立した状態でいる必要を感じている、というものである。

 

「したがって、例えば誰かが私にレーニン賞を与えてくれるとしても、私はそれを受けることはできないのです」。

 

 

 

ほかの辞退者たちの理由は?

ノーベル文学賞を辞退したのは、サルトルが初めてではなかった。

 

1926年、アイルランドの劇作家ジョージ・バーナード・ショー文学賞は受賞したが賞金の受け取りを辞退している。その金額があまりにも大きいためで、「読者や観客のおかげですでに必要なお金を持っている」というのがその辞退の理由だった。

 

1958年に授賞が決まったボリス・パステルナークも辞退したが、これはソヴィエト連邦政府からの圧力が原因だった。もし彼が受賞のためにスウェーデンまで行こうとしたら、その時点でソ連政府が彼を逮捕してシベリアに送ってしまっただろう、と言われている。

 

こうした前例の中、1964年のサルトルの受賞辞退は、賞も賞金も辞退し、かつ授賞の知らせを受けてすぐに自らの意思で辞退を表明した初めての例であった。

 

授賞決定前に辞退を通達していた

1964年のノーベル文学賞の発表は10月22日行われたが、実はサルトルはすでに14日の時点でスウェーデンのアカデミーへ自分を文学賞の候補者リストから外すことを依頼し、もし自分が選ばれても受け取るつもりはないという意思を表明する書簡を送っていた。

 

しかしこの書簡は読まれずに選考が進められてしまったとみられており、結局「授賞はするが受賞は辞退」という結果になった。

 

そのため、現在でも1964年のノーベル文学賞は「受賞者なし」ではなくサルトルが受賞者ということになっている。

 

いずれにせよこの授賞決定と受賞辞退のニュースの直後はメディアが大騒ぎになったため、サルトルシモーヌ・ド・ボーヴォワールの妹エレーヌの家にしばらく隠れて暮らしていたという。

 

当時サルトルスウェーデンのメディアに送ったコメントには、ていねいな説明と感謝を込めた辞退の意図がつづられていたが、1976年のドキュメンタリー映像「Sartre by Himself」の中では、彼は強い言葉でこう語っていた。

 

「私が政治的な活動もしていたため、ブルジョワ階級の人たちは私の “過去の過ち” を隠してやろうと考えたのです。さあ、認めなさい、と来たわけだ。そして私にノーベル賞を与えた。彼らは私に “許し” を与え、その価値があると言ったわけです。ゾッとするような話ですよ!」

 

 

 

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